ダーウィンと現代集団遺伝学

摘要

F.ミーシヤーがヌクレインと命名した酸性物質を細胞核から発見したのは，1869年のことである。 場所は南ドイツにある美しい中世都市チエービンゲンだ。 城跡にあったミーシヤーの研究室は，今は小さな博物館となっている。 筆者は2度ほどこの場所を訪れたことがあるが，ここがDNAの発見の場所であったのかと感激したことを覚えている。 ところで，J．G。 メンデルがオーストリアのブリューン（現在はチェコのブルノ）の修道院でエンドウの遺伝実験を行ったのは，1856年から1862年にかけてのことである。 その結果が「植物雑種に関する実験」として発表されたのは1865年であり，ヌクレインの発見より4年早い。 また，C。 ダーウィンの『種の起原』の初版は1859年であるから，これよりは6年遅い。 進化生物学の黎明期には，このような偉業が10年という短期間のうちに達成されたのだが，相互の関係どころかヌクレインやメンデルの遺伝実験の意義もすぐには理解されなかった。 黎明期の黎明期たるゆえhであろう。 メンデルの遺伝実験は，遺伝物質が粒子的性質をもたねばならないことを示した点で，それまでの融合遺伝説に取って代わるものであった。 しかし，メンデル遺伝の意義と普遍性が，H。 ド色フリース，C。 E。 コレンスとE。 von。 S。 チエルマクによって再度発見されるまで，35年もの時間を要した。 この間に『種の起原』1）は再版を重ねたが，遺伝物質や遺伝法則については初版と本質的に変わるところはなかったのである。 悍Nの起原』の「飼育栽培のもとでの変異」（第1章）や「自然のもとでの変異」（第2章）にある遺伝に関する記述にはラ　 ダーウインの並ほずれた観察力によって致命的な欠陥ほみられないものの，間接的な言い回しやまわりくどさがある。 結局，『種の起原』では，融合すべき遺伝法則と自然選択が未解決のまま残された。 ようやく20世紀になって融合の努力がなされ，集団遺伝学という新しい学問分野が誕生することになる。 本稿は，20世紀に勃興した集団遺伝学の流れを概説するが，その前に，そもそも『種の起原』が看破した生命の本質についても触れておきたい。