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テト攻勢第一波と第二波間に出されたホー・チ・ミンからレ・ズアン宛の手紙についての内容分析 -テト攻勢第二波発動に関する試論-

机译:第一波和第二波攻势之间胡志明致Les Zuan的信件内容分析-第二波Tet攻势试论-

摘要

1968年の旧正月(テト)に、南ベトナム解放民族戦線(以下、解放戦線)を中心とする解放勢力1によって行われた当時のベトナム共和国(いわゆる南ベトナム2)の首都サイゴンをはじめとする諸都市への一斉攻撃、いわゆるテト攻勢は、ベトナム戦争3における分水嶺となる事件であった。1964年8月に発生したいわゆるトンキン湾事件以降、アメリカは南ベトナムに本格的に介入すると同時に、北ベトナムへの報復爆撃(いわゆる北爆)も開始した。65年中に派遣されたアメリカ軍の数は18万人を超え、翌66年には48万人に膨れあがり、最大時には54万人にも達した。アメリカの本格介入に直面したベトナム労働党(現在のベトナム共産党)4は、1967年夏頃から南ベトナムにおけるアメリカの戦略は行き詰まりを見せていると判断し、1968年1月に行われた第14回中央委員会議で、都市に対する軍事的な総攻撃と都市住民の総蜂起を結合した一大作戦を決行することを決定した5。1月31日未明から各地で攻撃が開始され、サイゴン市内では解放勢力がアメリカ大使館を数時間にわたって占拠し、その様子が世界中に報道された。さらに、南ベトナム政府警察長長官のグエン・ゴック・ロアン(Nguyễn Ngọc Loan)が解放戦線のメンバーを路上で射殺するシーンが全世界に配信され、アメリカ国内世論はもとより世界中に衝撃を与えた6。中部の都市フエでは約1か月にわたって戦闘が継続された。この結果、アメリカでは大規模なベトナム反戦運動が巻き起こり、当時のジョンソン(Lyndon B. Johnson)大統領は、68年3月、北爆の部分停止と大統領選挙の不出馬を表明した7。さらに同年5月には、パリでのアメリカと北ベトナムの第一回会談が開かれ、ベトナム戦争は新しい局面に入っていくことになった。しかしテト攻勢とは、1968年1月に行われた解放勢力による一連の攻撃(第一波)のみを指すのではない。同年5月に第二波、同年8月に第三波が発動されて、この三波を合わせてテト攻勢と呼ぶ必要がある8。テト攻勢は政治的には成功したが、軍事的には失敗したと言われている。特に第二波、第三波と無理な攻撃を継続したために、解放戦線側は多くの死傷者を出して、立て直しを図るために数年かかったと評価されている。ベトナム共産党の機関誌『ニャンザン』の元副編集長を務め、後にフランスに亡命したブイ・ティン(Bui Tin:筆名がタイン・ティン)は、その回想録のなかでテト攻勢について以下のように述べている。 1988年の始め、テト攻勢20周年記念に際して、国防相は1968年の攻勢について、総括的な意義のある集会を開いた。外務省の代表が出席して、あの勝利が外交闘争の面で及ぼした影響について語った。発表された数字を見ると、犠牲は実に膨大だった。最初の段階(1968年1月)では多くなかったが、第二段階(1968年5月)になると増えており、第三段階(1968年9月)ではさらに増えている。急激で猛烈な平定作戦によって、1969年から70年初めまでに、さらに犠牲者が続出した。数十年かけて作られた基礎単位の武装勢力、ゲリラ部隊、地方の正規軍は、1968年中にほとんど残らず暴き出され、重要な地域から一掃されてしまった。このダメージから少しずつ回復するようになったのは、1970年の半ばになってからだった。誰もが認めるように、1968年半ばから70年初めまでは、解放勢力が劣勢に立たされた時期で、その後徐々に基盤を立て直すために、全勢力の保全に回らねばならず、戦争中の他の時期と比べて最も被害が大きかった時期である9。 本論文では、テト攻勢第一波終了後、なぜ第二波が発動されたのかについて焦点をあてる。その際に主要な分析対象とするのは、1968年3月10日に、中国にいるホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh)から、当時第一書記を務めていたレ・ズアン(Lê Duẩn)に出された手紙(以下、「ホーの手紙」と略す)である。後述するように、「ホーの手紙」はテト攻勢の第一波が終了し第二波が始まる前に出され、その主な内容は、ホー・チ・ミンが南ベトナムを訪問し、解放勢力を鼓舞したいという希望を表明するものになっていた。これまで政治局や中央委員会議がどのような決議を出したのか、どのような総括をしたのかについては、現在刊行されている党文献などを通して一部明らかになっているが、ベトナム労働党の上層部、ホー・チ・ミンやレ・ズアン、後にパリ会談に参加するレ・ドゥック・ト(Lê Đức Thọ)がどのような認識を持っていたのかは明らかではない10。 本稿では、「ホーの手紙」の内容分析とともに、当時の中央委員会決議文などを分析することにより、以下の諸点についての仮説を提示することが可能である考えている。(1)テト攻勢第二波はどのような目的を持って行われたものなのか、(2)テト攻勢第二波、第三波と攻撃を継続したが、これらはベトナム労働党執行部の情勢判断の誤りによるものだったのか。それとも何らかの目的を達成するために意図的・計画的に行われたものだったのか、(3)第13回中央委員会議において、軍事闘争、政治闘争、外交闘争を結合して行う「三面闘争路線」が提示されるが、テト攻勢時の外交目標はどのようなものだったのか、についてである。断っておかなければならないのは、本論文の目的がテト攻勢の全体像を明らかにするものではないということである。第3節で言及するが、本論文で分析対象とする「ホーの手紙」を取り上げている先行研究はほとんど存在しない。そこで、「ホーの手紙」を分析対象に含めることによって提示可能な仮説を導きだし、検討することが本論文の主要な目的を形成する。第1節においては、アメリカの本格介入に直面したベトナム労働党が、テト攻勢までどのような方針をもっていたのかについて概観する。第2節では、テト攻勢においてどのような軍事的目標が設定されていたのかについて言及する。第3節では、本論文が主要な分析対象とする「ホーの手紙」の公開状況とその形態について焦点をあてる。現在、5つの形態で「ホーの手紙」が公開されている。第4節では、それら5つの形態で公開されている「ホーの手紙」の内容について比較分析を行う。第5節では、「ホーの手紙」の内容について考察を加えて、五つの仮説を提示し検討を加える。
机译:None

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  • 年度 2011
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