安全文化: 試される良心と勇気

摘要

これは，今から2500年も昔の中国，すなわち，春秋時代と呼ばれている頃の，有名な論語に出てくる話です。葉という小国の統治者(葉公)が，次のように孔子に自慢話をします。吾黨有直躬者。其父攘羊，而子證之。自分が統治する国に，躬という名前の正直者がいて，生活に窮した自分の父親が家族のために羊を盗んだが，躬はこれを所轄の治安機関に通報したという内容です。葉公は，自国の民の順法精神の高さを誇り，孔子をして感服させようとしたのですが，孔子は，こう答えます。吾黨之直者，異於是。父爲子隱，子爲父隱。直在其中矣。私の国での正直者というのは，そうではありません。父は子の罪を庇い，子は父の罪を庇うもの。それが真心に従った正直さのはずです。真心を覆してまでの非人間的な秩序が正義であると尊ばれるべきではありません。直近の者同士の信頼がなければ，国家の土台が安泰であろうはずがないからです。結局，正直者の躬は，父親に対する暴虐の罪で，処刑されたとのことです。孔子の教え，すなわち儒教は，封建主義国家における根本的教義とされ，日本の道徳としても同化されました。会津藩校の日新館では，「什の掟」(藩士の家庭の6〜9歳の子息たち10人ほどのグループが決めた日常生活の規律)の中に，「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」というのが最初に謳われ，全項目のむすびには，「ならぬことはならぬものです」，つまり，以上のルールは，つべこべ理屈を言わずに守ること，とあります。下位の者が上位に物申すなどとは，あり得ないことでした。大政奉還(1867年)の翌年，そのように純粋培養され元服した会津藩士の子息たちは，主君の決定への不服など微塵もなく，旗色の悪い戦場に白虎隊として出撃しました。時は元禄14年(1701年)，赤穂藩の第3代藩主，浅野内匠頭長矩が，忍耐の末，江戸城で刃傷沙汰を起こしたことで，家臣を路頭に迷わせることになりました。しかし，主君を恨まず，主君に切腹を科した幕府には刃向かわず，浪士47人は，主君を挑発した吉良上野介義央を襲撃しました。その命を捨てた仇討によって，亡き主への忠誠を全うし，自分たちの正義感と意地を世間にアピールします。厳格な上下関係は，安定した治世に不可欠と考えられたわけですが，もともと孔子の政治哲学では，徳治主義，つまり，強大な権力をもつ者ほど頭脳明晰で，高潔であることが前提でした。しかし，必ずしもそうでない現実には，孔子自身も悩まされ続けました。上位の考え方や決定を下位が批判できない仕組みでは，しばしば正論が通らず，理不尽な出来事が起こります。再び中国，紀元前300年頃。時代は春秋から戦国に移り，隣国との安全保障が重要な政治課題だった頃，祖国楚の安泰のため情勢分析し，諫言する屈原は，佞臣たちに煙たがれ，僻地に追い払われます。そして，流浪を重ねた末，最後は絶望して投身自殺に追い込まれます。時代が下り，漢の第7代皇帝，武帝の治世の頃(紀元前100年頃)。蘇武，李陵は，勇猛な活躍にもかかわらず，敵対国(匈奴)の軍団との絶対的な兵力の差によって囚われの身となってしまいます。そして，讒言を武帝の耳に入れる佞臣による陥れもあって裏切り者とされ，家族皆殺しにされてしまいます。それでも祖国への愛慕と忠心を捨てません。一方，欠席裁判の場で，李陵を庇う発言をした司馬遷は，腐刑の辱めを受けます。日本では，「出る杭は打たれる」，「雉も鳴かずば擊たれまい」，「長い物には巻かれよ」,等々のようなことわざが生まれ，現代社会においても，実直な生き方を諦めるときや見下す言い方として，ときには，清廉ではなく尊敬されずとも，現実的で賢明な処世術の表現として使われます。原子力に求められる「安全文化」は，どうも本質的に，以上の流れを汲む，日本人の道徳観や文化と反りが合わないのかもしれないと思うことがしばしばあります。本稿では，それがいかに原子力安全の点から重大な問題となるのか，否，現実となっているのか見ていきます。